唇パック前の後悔!32C席のリップ・クライシス

※登場人物は全て仮名です。ちょっとほっこリップパックがつなげる恋愛にまつわるお話です。

リップパックを怠った女:ゲート前の予感

成田空港第一ターミナル、ゲート32。

午前9時15分。搭乗開始まであと15分。

香織(32歳・広報担当)は、化粧ポーチを膝の上に広げていた。社員旅行でハワイに行くのは5年ぶり。せっかくだから、少しでも可愛く見られたい。

コンパクトミラーを開き、口紅を取り出す。

「よし、完璧—」

リップブラシが唇に触れた瞬間、違和感。

カサッ。

「…え?」

もう一度塗ろうとすると、ブラシが引っかかる。鏡をよく見ると、唇の表面が砂漠のようにひび割れていた。

「嘘でしょ…」

この一週間、深夜残業続きで、スキンケアどころじゃなかった。気づけば、唇はガサガサを通り越して、皮がめくれかけている。

「まあ、機内で寝てれば治るでしょ」

そう自分に言い聞かせた。この判断が、すべての始まりだった。


隣の席には、30代前半くらいの男性が座っていた。白いシャツに上品なジャケット、きれいに整えられた髪。雑誌を読む横顔が、妙に整っている。

香織は小さく会釈をした。彼も微笑み返してくれた。

(うわ、感じいい人だ…)

心の中で小さくガッツポーズ。7時間のフライト、隣が感じのいい人で良かった—そう思ったのも束の間。

彼がこちらを向いて話しかけてきた。

「初めてのハワイですか?」

「え、あ、はい!」

慌てて答えたその瞬間、香織は気づいた。

(唇、やばい状態で見られてる…!)

とっさに手で口元を隠すように、頬杖をつく。

「僕は3回目なんですけど、やっぱり何度行ってもいいですよね」

「そ、そうですね…」

手で隠したまま、ぎこちなく相づちを打つ。

彼は少し不思議そうな顔をしたが、また雑誌に目を戻した。

(最悪の第一印象…)


機内という密室で起こった悲劇

シートベルト着用サインが消え、CAさんがドリンクサービスのワゴンを押してきた。

「お飲み物はいかがですか?」

「オレンジジュースをお願いします」

隣の彼は、

「僕はトマトジュースで」

プラスチックカップを受け取り、一口飲もうとした瞬間—

(あ…)

オレンジの酸味が、荒れた唇に触れた。

「っ…!」

顔が歪む。染みる。痛い。

「大丈夫ですか?」

隣の彼が心配そうに覗き込んできた。

「だ、大丈夫です!ちょっと熱かっただけで…」

「オレンジジュースが?」

「…はい」

完全に不審者だ。

香織は冷や汗をかきながら、ジュースをそっとテーブルに置いた。


それから30分後。

機内食が運ばれてきた。チキンかフィッシュか。香織はチキンを選んだ。

付け合わせのサラダ、パン、デザートのフルーツ。

(パンなら大丈夫でしょ)

柔らかそうなロールパンに手を伸ばす。一口かじった—

バリバリッ。

「…え?」

表面はカリカリに焼かれていた。そして、その硬い表面が、荒れた唇の皮をえぐるように引っ剥がした。

「いっ…」

思わず声が出る。

隣の彼が、またこちらを見た。今度は明らかに心配を通り越して、困惑している。

「本当に大丈夫ですか?もしかして体調悪いとか…」

「だ、大丈夫です!本当に!」

香織は必死に笑顔を作ったが、唇が裂けて、じんわりと血の味がした。

(もう無理…トイレ行こう)


免税カタログの啓示

機内トイレの鏡の前。

香織は自分の唇を見て、絶望した。

ひび割れ、皮がめくれ、一部は赤く腫れている。これでは、とてもじゃないが人前に出られない。

(どうしよう…あと6時間もある)

リップクリームを塗ったが、焼け石に水だ。

座席に戻ると、隣の彼は寝ていた。

(良かった…)

香織は小さくため息をつき、気を紛らわせようと座席ポケットから免税品カタログを取り出した。

香水、化粧品、お菓子、アクセサリー—

そして、28ページ目。

『リップ集中ケアパック』

商品写真には、唇にぷるんとしたジェル状のシートを貼った女性が微笑んでいる。

「乾燥した唇を15分で集中ケア。機内の乾燥対策に最適」

「ヒアルロン酸・コラーゲン配合」

「価格:3,800円(税込)」

香織の脳裏に、ある記憶がフラッシュバックした。


【回想】

2ヶ月前、誕生日。

「香織、これあげる。最近流行ってるらしいわよ」

母がくれたプレゼント。ピンクの箱に入ったリップパックセット。

「ありがとう、お母さん」

そう言って受け取ったものの、忙しさにかまけて、洗面台の引き出しに放り込んだままだった。


(…あれ、使ってない)

いや、それどころじゃない。

(持ってくればよかった)

さらに言えば。

(出発前に使っておけば、こんなことには…!)

後悔の波が押し寄せる。

「すみません」

隣の彼が目を覚まし、トイレに立った。

その隙に、香織は再びコンパクトミラーを開いた。

唇の状態は悪化している。サハラ砂漠よりも乾いてる・・・このままハワイに着いても、ビーチどころじゃない。

(機内販売で買おう)

決意を固め、CAコールボタンに手を伸ばしかけた—その時。

「すみません、この商品を購入したいのですが」

隣の席に戻ってきた彼が、手を挙げてCAさんを呼んでいた。

「はい、どちらの商品でしょうか?」

「28ページの、リップケアパックです」

「…!」

香織は思わず彼を見た。

彼は少し恥ずかしそうに笑った。

「実は僕も、唇の乾燥がひどくて。さっきカタログ見てたら、これいいなって」

「かしこまりました。少々お待ちください」


香織の心の中で、何かが崩壊した。

(彼も…買うの?)

(じゃあ、私も買いたいなんて、今さら言えない…!)

(いや、言えばいいじゃん!同じ悩みを持ってるってことで、話も弾むかも!)

(でも、この荒れた唇を見られたら…)

脳内会議が紛糾する。

結局、香織は何も言えなかった。


着陸、そして

数分後、CAさんがリップパックを持ってきた。

彼は早速、開封した。

半透明なジェル状の唇の形をした白いシート。それを唇に貼り付ける。

「…っぷ」

香織は思わず吹き出しそうになった。

唇に貼られたシートが、まるでアヒル口を強制しているように見える。しかも、彼の真面目な顔とのギャップが絶妙に面白い。

彼は気づいて、少し恥ずかしそうに笑った。

「変ですよね」

「い、いえ!そんなことないです!」

必死にフォローする。

彼はシートを貼ったまま、こう言った。

「実は、さっきから、あなたも唇を気にされてるように見えたので」

「…え?」

「もしよければ、コレたくさんあるんですけど、1枚使います?」

彼は購入したばかりのシートを差し出した。

「僕、姉から『飛行機乗るなら絶対持ってけ』って言われてたんですが、今日は忘れちゃって」

香織は、一瞬言葉を失った。

そして—

「…ありがとうございます」

素直に受け取った。


それから15分間。

32列C席とD席には、揃ってリップパックを貼った二人が並んで座っていた。

周囲の乗客がチラチラと視線を送る。

恥ずかしい。

ものすごく恥ずかしい。

でも、不思議と心地よかった。

「あの、僕、田村って言います」

彼が自己紹介してきた。リップパック越しの声が、少しこもっている。

「私、香織です。今日は…ありがとうございました」

「いえいえ。お互い、ケアは大事ですよね」

二人は笑い合った。


ホノルル空港到着後

リップパックの効果は絶大だった。

唇はしっとりと潤い、ひび割れも目立たなくなっている。

「すごい…本当に効くんですね」

「でしょう?いつも姉のおすすめするアイテムは、間違いないんですよ」

香織と田村さんは、一緒に入国審査の列に並んだ。

「あの、もしよければ、ワイキキでお茶でも」

「はい、ぜひ」


4日後、帰国便の機内。

香織のポーチには、ホノルルのABCストアで購入したリップパック10枚セットが入っていた。

そして隣の席には、往路と同じ田村さんが座っていた。

「次の旅行も、一緒にどうですか?」

彼の提案に、香織は笑顔で答えた。

「その時は、出発前からしっかりケアしておきます」

二人は笑い合った。

唇は、完璧にぷるぷるだった。


【エピローグ】

帰宅後、香織は洗面台の引き出しを開けた。

ピンクの箱に入ったリップパックセットが、未開封のまま眠っている。

「お母さん、ありがとう」

そして、スマホで母にメッセージを送った。

「この前のリップパック、すごく役に立った。また買っておいてね」

すぐに返信が来た。

「あら、使ったの?良かったわね。今度は出発前に使いなさいよ」

香織は苦笑しながら、リップパックを一枚取り出した。

次の旅行は、完璧な唇で行こう。

そう心に誓ったのであった。


― 終 ―

 

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